生と死の旋律
2024.02.25
少し前のめりになるとそこは死である。
コンサートホールの3階にある、数席しかない、ライトすら当たらない場所。
目を閉じるといつもその情景が浮かぶんです。
いつも、いつの日も。
そして、ここに帰っておいでと、優しい声がリフレインした時に流れるんです、旋律が。
人生で幾度も、幾度も。
ラヴェルのボレロ。
そして
ショパンの別れの曲。
コラムを読んで頂いている方はご存知かと思うのですが、僕はボレロが大好きでして、ボレロのような人生を歩みたいんです。
ボレロのように右肩上がりの人生を。
スネアドラムとフルートから静かに始まる旋律。
それは生であり、生であり。
そして約15分後に迎える、トランペットやサクソフォーン、他にもたくさんの楽器が奏でる最高潮の後の静寂。
それが死であり。
死は別れであり、別れであり。
だから、ボレロの後には必ずショパンのピアノが静かに心を整えてくれるんです。
月が浮かぶ海面のように、穏やかに、そして穏やかに。
ここ数ヶ月、スネアドラムとフルートが鳴っている事はわかっていたんです。
それは生のスネアドラムであり。
そして、同時に死へ向かうチェロの旋律も同時に。
2つのボレロが流れているんです、生まれて間もないボレロと、死に近づいているボレロが。
本当はこんなに早く死へ近づくボレロが鳴るはずではなかったんです、僕の中では。
そして、チェロが流れた時、いつも確信するんです。
それが常に人生の転機であり、人生の転機であると。
チェロが奏でる美しい音色は、どこがで錯覚だと思いたいんです、いつも。
でも、ショーマストゴーオン。
オーケストラは止まらないんです。
それは誰にも与えられた残酷な時という流れであって、人生という流れであっで。
チェロの音色が消え、フルートとピッコロ、ヴァイオリオンとサクソフォーンの音色だけが聞こえてきた時。
それはまさしく死への一歩手前であり、でも最高潮への二歩手前であり。
悲しみと喜びが共存している。
15分間の音色は麻薬のように美しく、麻薬のように高揚させ、麻薬のような依存があり。
フルートとピッコロ、ヴァイオリオンとサクソフォーンに加え、トロンボーン、トランペット、サックス、ピッコロが音を奏で出す、シンバルの音色が響いたら、その先にあるのは死であり。
そう、ボレロという一つの物語の終焉であり、終演なのです。
スタンディングオベーション前の、ほんの一瞬にある。
圧倒的であり、永遠でもある静寂。
そして、その後に聞こえるのはいつも、必ず、ショパンのピアノの美しい旋律。
でもね、それに重なるように、スネアドラムが聞こえてくるんです。
スネアドラムの心地よいリズムがピアノの裏で静かに。
聞こえるはずもないのに。
幻想なのかなと思うんです、僕はショパンを聞いていたいのに。
でも、ピアノが鳴り止むと、スネアドラムなんです。
新たなボレロという物語が始まっているんです。
それは死ではなく、生まれたばかりの生の旋律。
まさに希望であり、太陽であり。
このボレロは緩やかに、穏やかに右肩上がりで奏でられる事を願い。
そんな夜に呑んだClos Vougetは、フルートの音色がしました。
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