常在戦場と酔う
2024.09.04
僕は小学5年から浜学園という進学塾に通わせてもらったんです。
それは親に言われたからではなく、親も知らないクソみたいな小学校に生きている現状を変えたかったから。
この地域から脱出しないと僕は死んでしまう。
その脱出口が浜学園だったんです。
典型的なサラリーマン共働きの家庭において、決して安くはない学費がかかる浜学園。
これはたぶん、僕の人格を形成するにあたり、もっとも優れた選択だったと、今でも思っています。
それくらい、僕にとってはエポックメイキングであり、刺激的な日々。
ただ、齢を重ねるにつれ、その刺激的な日々も忘却の彼方にある訳なのですが、常に忘れず、常に自分の生きるモットーとしてある言葉あります。
それが浜学園のスローガンなんですけど。
ちょっと宗教チックなんですけど、その言葉が好きで。
その言葉を常に意識して生きている事なんてことではなく、僕の遺伝子レベルでその言葉がDNAに組み込まれているんです。
その言葉が。
「常在戦場」
常在戦場なのです。
読んで字の如く、常にココはいつ死ぬかもわからない戦場だと思って日々を過ごしなさいってこと。
誰が言うた言葉とかを話出すと長くなるので割愛てすが、僕の人生を振り返れば、すべてこの常在戦場という四文字に集約されてますし、逆にいうと、常在戦場という言葉を知らなくても、常在戦場的な気概のある、そういう人とはビジネスをしたいと思うのです。
なぜ、浜学園がこんなちょっと戦争ちっくな言葉を教育の場所のスローガンにしているのかというと、浜学園は小学生にとって、人生を左右しかねない中学受験という、人生に1回しかないチャンスに備えるための予備校なんです。
人生に1回しかない好機を勝ち取るか、敗北するか、その1回のために努力をする場所なんです。
バカコロナ騒ぎが過ぎたらリモートワークなんてものは衰退するように、人はさぼれる環境ではなかなかちゃんとできないもんなんです。
「まぁ、いっか」という生ぬるい環境に自分をおけば、戦意はどんどん失われ、負け犬根性が醸造され、そして最終的に敗北する。
そんな結果にならないために、そんな憂き目にあわないために。
今生きる、今学ぶ、その場所は常に戦場であると思い、普段から自分を律し競争に勝ち抜く精神が必要なのであると。
なんだか、Z世代には響かなさそうなんですけどね(w
でも、ロスジェネ世代の僕にはバリバリ響いたんです。
小学5年生の森川少年のDNAに刻まれたんです。
常在戦場ってのは、その戦場が楽しいからできると思うんです。
BOSSはいつでも連絡つきますね、BOSSはいつも仕事してますね。
そんな事をよく言われるんですけど、そんな事もないのです、酔っ払ってる時もあれば、料理をしてて手を離せない時もある。
女子とイチャイチャする事くらい、たぶん、多分にはないけど、たぶん、きっと、メイビーある。
でも、なんでそう言われるかというと、仕事が楽しいから、働く事が生きる事と思っているからこそ、プライベートと仕事とわけたりしないからなんです。
そうやっているからこそ、逆にいうと、いつでもちゃんと仕事をしているから、いつでもちゃんとプライベートがあると思うんですよね。
常在戦場。
この齢になって思うんです。
がむしゃらに働く日々があったからこそ、今は洗練された判断という仕事が多くをしめることを。
そして、がむしゃらに働く日々を経験しているからこそ、判断だけでは成立しない仕事の現場に今でもいって、がむしゃらに働く事ができるということを。
つまり、常在戦場は、決してきつい言葉ではなく、もしかしたらユートピアではないのだろうかと。
その精神と共に生きていく事は、仕事であっても、プライベートであっても、そして愛する人のためにあっても、それを思いやり考え、そして常に実行できる体制にある。
そういう人間であれば、それは至福な人生であり、至福な人生であるのではないかと。
血中アルコール濃度が飲酒運転数回分レベルの状態で書いているコラムなので、明日になれば、なぜこのコラムを書いたのか、なぜ、こんなコラムを書いたのかは思い出せないかもしれないけど、きっと、さっさと寝ればいいのに、このコラムを捧げているこの人生こそ常在戦場なのかもしれません(笑
いみふーって思っている方、ごめんなさい。
そんな事を考えながら、今日、プレゼントでもらった、まぁまぁお高いGAJAを眺めているんです。
ぼくの常在戦場を捧げるのは、このGAJAのような女子であると。
このワインが産んだ土地バルバレスコは、美しく威厳のある女子を意味するらしい。
僕の常在戦場は常に誰かのためにあり、そして、今はこのバルバレスコの為にあるんじゃないかと。
そう思う今日この頃です(笑
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